B)水が流れていた
現在の千歳通りは以前は品川用水で現在の武蔵野市から品川に流れていました。
1730年頃熊本藩細川氏の弟(若狭守)が品川領戸越などに屋敷を拝領した際に、その庭に泉池用として堀を作り、これが戸越上水と言われました。後に品川用水として灌漑などに利用されるようになりました。しかし、用水の必要もなくなってきたこともあり、昭和27年(1952年)頃に埋め立てられ、道路として利用されるようになりました。今も千歳通りの多くの玉石垣が残されているのは、品川用水の雰囲気を残すためです。それは「玉石垣のある風景」として世田谷区のせたがや地域風景資産に選定されています(第1回選定)。
品川用水であった頃、桜丘地区に次の五つの橋が架けられていました。(1)現在の環八のところに「稗殻(ひえがら)橋、(2)信号"笹原小東"ところに「橋場橋」、(3)桜丘二郵便局近くに「地獄橋」、(4)ファミリーマート近くのところに「南橋」、(5)世田谷通り農大前のところに「喜多見橋」。このうち橋場橋、南橋、喜多見橋のところには野菜などを洗うための洗い場がありましたな。
なお、桜丘二郵便局近くに低い石が設置され、そこに「木場跡」とありますが、当時は上述の通り「地獄橋」と呼ばれていました。橋が水面から随分と高く、怖かったためだと言われています。