C)吉良氏
鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、同族の源氏の正統である吉良氏を信頼して重く用いていました。吉良治家(世田谷吉良氏の初代)が貞治5年(1366年)に世田谷郷を与えられ、支配した地域は、西は多摩地方、東は目黒・大田・品川の一部、南は川崎・横浜にまで
及んでいました。
永和2年(1376年)に鎌倉八幡宮に上弦巻村の半分を奉納した際の奉納書に「世田谷」という名称が出てきますが、これが歴史の記録に初めて見られる「世田谷」です。
吉良氏は足利一門において名門中の名門であり、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とされ、足利将軍家の血脈が絶えた際に足利宗家(本家)の家督を継承する格式が許されていました。
吉良氏は、大きく分けて三河吉良氏(又は西条吉良氏)、奥州(武蔵)吉良氏(又は東条吉良氏)、土佐吉良氏がありますが、世田谷を領していたのは奥州吉良氏です。
因みに、元禄赤穂事件に登場する吉良上野介義央(近年では「よしなお」ではなく「よしひさ」の読みが正しいと考えられています)は三河吉良氏です。
豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の滅亡にあい、その後、北条氏に味方した吉良氏朝(第8代)は現在の千葉県に逃れましたが、やがて徳川家康に許されました。
しかし、弦巻の実相院に隠居し、息子の頼久が禄高約1,100石の単なる旗本とされた上、源氏の名門「吉良」の苗字は許されず「蒔田」を名乗らされました。
その後、江戸中期の元禄赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に「吉良」に復姓しました。