C)西暦1400年頃(室町時代)
残念ながら、吉良氏の誰が、いつ、この世田谷城を最初に築いたかは不明ですが、応永年間(1394年~1426年)頃に居館として整備されたと考えられています。
また、吉良成高(第6代)の頃、城郭として修築されたものと考えられています。
世田谷城は、後の城のように高い天守閣を持つような城ではなく、台地の突端を利用した豪族の館といったような建物でした。
北、西、南が外堀で囲まれ、その中に内堀があって、城内は東の丸、南の丸、西の丸に分かれ、烏山川の入り組んだ湿地や雑木林、森林等を利用した城でした。
つまり、現在の世田谷城址公園は、当時の世田谷城の敷地のごく一部に過ぎません。
館の外部には、勝国寺(鬼門除け)、円光院(櫓)、勝光院、世田谷八幡、常徳院、弘徳院(現在の豪徳寺)を置き、外からの攻撃に備えました。
また、防備の一つとして、あちこちに竹林を配しましたが、これは敵からの遠望を遮り、いざという時には、敵の人馬が進めないようにするための手段と考えられ、今も豪徳寺や勝光院などには見事な竹林が残されています。
世田谷城は、天正18年(1590年)に小田原の役により豊臣氏勢に接収され、同戦役後廃止されました。
江戸城改修に世田谷城の石材が利用され、「世田谷」と銘の刻まれた石垣が桔梗門脇に据えられ、今でもその銘は見られるそうです。